「東南海地震と三河地震を振り返る」
ゲスト:地震学者 武村 雅之さん
(名古屋大学減災連携研究センターエネルギー防災寄附研究部門教授)
日時:2016年2月3日(水)18:00〜19:30
場所:名古屋大学減災館 減災ギャラリー
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦(名古屋大学減災連携研究センター客員教授)
愛知県は太平洋戦争末期の昭和19年12月と昭和20年1月、立て続けに地震に襲われました。昭和の東南海地震と三河地震です。
わずか1ヶ月余の間に起きた2つの地震に何か関連はあるのですか?と地震学者の武村さんに聞きたくなる気持ちをぐっと抑えて(笑)、まずはこの2つの地震がもたらした被害について詳しく教えていただきました。
まず武村さんが参加者の皆さんに問いかけたのは「愛知は地震が少ないと言われるが、それは本当か?」ということ。確かに関東地方に比べてふだん体に感じる地震が少ないこの地方ですが、明治以降国内で1000人以上の死者が出た地震を振り返ってみると、この地方は濃尾地震、東南海地震、三河地震と、実は3度も襲われているのです。3度以上そんな大地震に襲われているのは愛知県と岩手県だけなのだとか。地震への備えの必要性を改めて感じさせるデータですね。
武村さんによると、昭和東南海地震の被害が大きかったのは明らかに地盤が悪く揺れの強かった地域だそうです。
ただ他にも犠牲者数が多かった場所がところどころにあります。愛知県半田市と名古屋市の南部もそうでした。その原因は軍需工場が倒壊し動員されていた人たちが多数亡くなったこと、古い紡績工場をそのまま飛行機工場に利用したことことが建物倒壊の理由だと武村さんは言います。戦時ということで国内の耐震基準が緩和されたり停止されたりしていったことが背景にあるということで「地震よりも人間のやることの方が危険だという面もある」と武村さんは指摘しました。
三河地震は、そのほぼ1ヶ月後に起きました。この地震では倒壊家屋あたりの死者数が他の地震よりも多いという特徴があるそうです。それは①深夜の地震で多くの人がぐっすり寝ていたこと、②直前の東南海地震で自宅を失った人が親戚の家やお寺に身を寄せていたりして1軒の家にいる人数が増えていたことなどが理由として考えられますが、③その頃まで続いていた東南海地震の余震がようやく収まって、外に避難生活をしていた人がちょうどこの時期から家の中で寝るようになったことも重なったのではないかと武村さんはみています。
2つの地震は戦時中だったため、記録があまり残っていないのではないかという先入観が私にもありましたが、武村さんは「戦時中であっても官僚組織はしっかりしていたので記録は残っている。当時それが報道されていなかっただけ。むしろ戦後間もなくのほうが混乱していて記録が残っていないことが多い」ということでした。
武村さんのお話は、自分の足で現地をまわって地震の後に設置された慰霊碑を確かめたり、必ず元の資料にあたって被害実態を確認したりしてきただけに説得力があります。カフェの後半、私のほうから「この2つの地震に関連はあるのですか?」とお伺いしてみたら、武村さんの答えは「関係あるかもしれないし関係ないかもしれない。それはわからない。いろんな学説はあるが、一番いけないのは地震のことが分かったような気持になること」。すなわち私たちは地震予知などに頼るのではなく、常に「この地方は1月に2つの大きな地震に見舞われることがあり得る場所だ」ということを肝に銘じておかなければならないということでしょう。
今回も会場の皆さんとの間にいろんな質疑応答があり、対話が盛り上がりました。
カフェの最後に、武村さんは自ら作った名言をプレゼントしてくれました。「安心は安全の敵、心配は安全の友」。よく行政用語では「安全・安心」とセットで使われますが、武村さんによれば安全と安心はまったく別物。確かに安心していると次の地震で亡くなってしまうかもしれない。まだ何も起きていないときに将来の地震で起きることを心配していないと、いざという時に生き残ることはできない、というわけですね。
武村さん、参加者の皆さん、今回もありがとうございました。