第129回げんさいカフェ(ハイブリッド)を開催しました

温故知新・伊勢湾台風後の報道から都市防災の未来を考える

ゲスト:災害情報学者 倉田 和己 さん
   (名古屋大学減災連携研究センター特任准教授)
日時:2022年8月25日(木)18:00~19:30 
場所:名古屋大学減災館1階減災ギャラリー・オンライン
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦 さん
(江戸川大学教授/名古屋大学減災連携研究センター客員教授)

 伊勢湾台風については、これまでのカフェでも何度か取り上げてきました。
 5000人以上の死者・行方不明者が出たことや、災害対策基本法が作られるきっかけになったということなどがよく知られています。
 そして台風の強さや災害の規模について、ちょうど“東京ドーム何個分”といった形で「伊勢湾台風並み」といった言葉が使われたりもします。
 しかし今回のゲストの倉田さんは、私たちはあの63年前の台風のことをどれだけ知っているのかと改めて考えてみた、ということです。
 倉田さんのような若手の防災研究者にとってみれば、生まれるずっと前の出来事です。知っているようで、知らない台風なのではないか。実際に被災したという方もこの地方には多数いらっしゃいますから「伊勢湾台風はこんな台風だった」と、うかつなことは言えないという気持ちも、一方であります。
 そこで倉田さんたちは、地元紙の中日新聞の協力を得て、当時の新聞報道を分析することで、伊勢湾台風が当時の世相がどのように反応したのか詳しく調べるという研究を始めたのだそうです。

 過去の災害の研究でよく使われるのは、江戸時代以前なら古文書、明治以降であれば役所の公式文書です。
 役所の文書は確かに信頼性は高いのですが、数字とか文字の羅列であることが多く、当時の世相や、被災住民たちの思いを読み取るのが難しいという面もあります。そこで倉田さんは、今回、新聞紙面を分析することで、それを知ろうと考えたそうです。
 研究はまだ始まったばかりということですが、その途中経過について今回のカフェでお話しいただきました。

 まず、台風上陸の翌日の紙面や号外を見ると、死者数も含め被害の全体像がまだわからないため、各支局から届いた写真が中心の紙面だったそうです。
 被災3日目頃までは、被害の悲惨さを伝えるたくさんの記事が紙面を埋めていましたが、具体的な復旧見通しに関する記事はありませんでした。
 その中で倉田さんが最も注目したのは、翌日の紙面の広告欄の企業告知。
 そこには地元の中部電力が「広範囲かつ長時間にわたって配電不能の状態に陥りお詫び申し上げます。目下全力を挙げて復旧につとめております」という告知を出していました。またその下には、地元の東邦ガスが「昨夜の台風で電力が停まりましたので、ガスの製造が困難となりました。電力復旧までご辛抱お願いします」という告知。そして名鉄電車も近鉄電車も「電気がないので止まります」という告知を出していたということです。
 これは2つの意味で興味深いと倉田さんは指摘します。
 まず新聞広告にわざわざ企業告知を出すということは、1日やそこらでは復旧しないということを、地元のライフライン企業がそろって考えていたということです。この時点で、復旧まで相当な長期戦になると覚悟を決めるほど、深刻なダメージだったということがうかがえます。実際に復旧までには相当長い期間が必要でした。
 もう一つは、電気が止まったためにガスが停まり、電車も止まったということです。つまり電気、ガス、水道、鉄道といったライフライン企業は、災害後に単独で事業継続することは難しく、例えば電気が止まると水道の取水が止まり、水道が止まると発電もガス製造もできなくなるなど、ライフライン企業同士が互いに依存し合っているということです。
 これは巨大災害後のBCP=事業継続計画を考える際にきわめて重要な事実で、例えば南海トラフ巨大地震でも同じようなことが起きる可能性があるだけに、今後の防災減災対策の大きなヒントになりそうです。

 続いて、被災4日目から1週間くらいまでの紙面では、とにかく被災者の置かれた状況の悲惨さや支援の不足を伝える記事が多くなってきます。長期間、被災地から水が引かないので食料や水が届かない、医療にアクセスできないなど、被災者の不満が噴出したような記事ばかりになります。

 そして8日目以降になると、貯木場の問題の記事が目立つようになります。
 伊勢湾台風では、名古屋港の貯木場の大量の丸太が、高潮で流され、近くの住宅を直撃したことで被害が拡大しましたが、この時期になると、それが誰の責任なのかといった論争の記事が増えたのだそうです。
 災害でこれほど大きな犠牲が出ると、誰の責任かということが報道でクローズアップされるのも無理もないことです。ただ、例えばその約50年後の東日本大震災では、港に置いてあったコンテナや石油タンクが流されて被害を拡大したということが起きました。責任追及だけでなく、どうすれば同じような被害が防止ができるかという視点の報道がとても大切だということが改めてわかります。

 カフェでお話をお聞きして、地元紙の記事というのはやはり当時の世相を知るのにとても役に立つことが改めてわかりました。当時まだテレビは普及し始めたばかり、ラジオ局の支局も少なかったので、やはり記者の数や支局の数などでは、圧倒的に地元紙が充実していました。
 ただちょっと注意をしなければいけないのは、新聞記事になるのはニュース性があるかどうかの判断が重要で、防災上重要かどうかという基準ではないことです。
 貯木場の話題のように背景に関係者の「対立」などがありますと、読者の興味をひくので大きく取り扱われがちになります。逆にどんなに深刻な問題でも、前日と変化がない場合はまったく記事として報じられないことになります。
 また伊勢湾台風の高潮で壊れた防潮堤の復旧作業には自衛隊が派遣されたのですが、まず愛知県側に派遣され、その後に三重県側に派遣されるという順でした。
 そのため、この頃の紙面には「なぜ三重県側に自衛隊は来てくれないのか」という地元住民の不満が伝えられていました。
 庶民の声をすくい上げる地元紙ならではの報道ではありますが、一方で、新聞記事では「対立」や「不公平」などの問題が大きく取り上げられやすいという傾向があります。
 倉田さんも、今回の研究成果を解釈・活用するときに気を付けなければならない点だという話をされていました。

 今回の会場とオンラインで170人を超える方々にご参加いただきました。倉田さん、参加者のみなさん、ありがとうございました。

 
 

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