第88回げんさいカフェを開催しました

減災と復興~明治村が語る関東大震災 (減災館特別展示との連携企画)

ゲスト:地震学者 武村 雅之 さん
   (名古屋大学減災連携研究センターエネルギー防災寄附研究部門客員教授)

日時:2018年9月12日(水)18:00〜19:30
場所:名古屋大学減災館1階減災ギャラリー
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦
   (江戸川大学教授/名古屋大学減災連携研究センター客員教授)

 げんさいカフェは、「南海トラフ広域地震防災研究プロジェクト」との共催で実施しています。


 今回のカフェで、武村さんは「なぜ日本人は皆、関東大震災のことを知っているか」という質問を会場の皆さんにしました。もちろん10万人を超える死者が出た、まさに未曾有の災害だったということもあるでしょうし、この震災が発生した9月1日が「防災の日」と決められ、毎年この日に大地震を想定した防災訓練をするので思い出すことが多いから、という理由もあるでしょう。
 しかし武村さんは「膨大な数の被災者が全国各地に避難して、その実情を直接多くの人に語ったこと」が、この大震災が人々の記憶に長く残っている理由ではないかとおっしゃっています。

 当時の資料によると、被災から1ヶ月以内に、大量の避難民が汽車と船で被災地を離れ、その数は合わせて103万人に上ったということです。武村さんは屋根のない貨車に乗って避難する人たちの姿を写した当時の写真を紹介してくれました。
 何しろ大きな震災だったので、避難先は全国各地に及んだようです。そしてその多くの人たちが、避難先に長くとどまっていたようなのです。
 その根拠となるのが、震災前と、震災後2ヶ月半たった後の人口統計を比較した一覧表。被災の中心となった東京市(当時)、横浜市、神奈川県群部の人口が77万4千人減っているのに対して、それ以外の道府県の人口が78万人増えていました。多くの人が2ヶ月以上、避難先でそのまま避難生活を送ったことが伺えます。逆に言えば、当時の全国各地の人々は、被災して命からがら逃げてきた避難民たちを暖かく迎えていたということなのです。
 避難してきた人たちの姿やその人たちの語る中身が、全国に実感を持って伝わりいまに至っているのではないかと武村さんはおっしゃいます。

 関東大震災を乗り越えてきたのは人間だけではありません。
 実は、いま愛知県の明治村に移築・保存されている数多くの建物も、関東地震をくぐり抜けてきた建物たちなのだそうです。武村さんによると、あわせて24の建物と構造物が、関東地震の震度5弱から6強の揺れを受けているとみられるそうです。
 それぞれの建物に震災をめぐるドラマがありました。
 例えば明治村5丁目67番地にある「帝国ホテル中央玄関」。奇しくも9月1日の地震当日は、この帝国ホテルの全館落成披露式だったのだそうです。
 そしてなんとか地震の揺れに耐えたこの建物は、翌日から、被災した各報道機関、各国の駐日大使館などの臨時事務所として活用されました。関東大震災では、各国から寄せられた義援金や援助が復興への大きな力となりましたが、この建物が、その義援金や援助を受け付ける窓口としての大きな役割をはたしたそうです。
 また明治村5丁目60番地にある、東京駅警備派出所の建物。煉瓦造りの八角形の建物には、震災後、焼け出されて駅前に避難した人たちの“尋ね人”の紙が壁いっぱいに貼られている写真が残っていました。地震に耐えたこの建物が、被災者のために大活躍したというわけです。

 この他、明治村には、多数のけが人の救護活動に使われた日本赤十字社本社病院の建物や、地震による土砂崩れで被害を受けた鉄道橋などもあり、ここを訪れるだけで、建物や構造物を通じて95年前に起きた大災害のことをリアルに感じ取ることができるのだそうです。
 とはいえこれは、日本で関東大震災に最も詳しい研究者の一人、武村さんならではの見方で、明治村関係者からも「そんな切り口でここを見てくださったのは先生が初めてです」と言われたそうです(笑)

 武村さんがカフェで強調されたのは「人間というものは、これから起きる出来事を正確に予測することは下手、しかし受けた試練を知恵や努力で乗り越えたり、困った人を助けたりというのはとても得意な存在」だということ。その生き証人が、明治村の建物群にあるということなのでした。参加者の皆さんも、そのお話にすっかり納得されていました。
 
 武村先生、参加者の皆さん、ありがとうございました。



→ポスター(PDF)
※過去のげんさいカフェの様子はこちら

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