シリーズ減災温故知新②「濃尾地震から123年で、考えなければならないこと」
建築史家 西澤 泰彦さん
名古屋大学大学院環境学研究科都市環境学専攻教授
企画・ファシリテータ:隈本邦彦
(名古屋大学減災連携研究センター客員教授)
共催で実施しています。
過去の大災害から、その教訓を学ぶ減災温故知新シリーズの第2回は、123年前の10月28日に起きた濃尾地震についてです。建築史家で濃尾地震にお詳しい西澤さんとの対話は、げんさいカフェとしては2回目。前回のカフェでは、マグニチュード8と内陸の活断層で起きる地震としては最大級の濃尾地震で、文明開化の象徴だった名古屋のレンガ造の建物が壊れたことが、ことさら強調されて、名古屋ではレンガ造が敬遠され、その後の公共建築に「木造への先祖返り」が起きたという事実を教えていただきました。 今回は、その後発見された新しい事実も含め、濃尾地震から123年後のいま、我々がしなければならないことをもう一度考えてみます。
改めて濃尾地震の被害記録を見ると、死者7,327人、全壊建物14万2,177と、巨大な災害だったことがわかります。約100年後の阪神・淡路大震災よりも死者が約1000人多いということは、当時の日本の人口が現在の3分の1だったことを考えると社会に与えたインパクトの大きさがしのばれます。
さて今回新たに発見された史料は、地震発生当日の「大阪朝日新聞号外」。早朝午前6時半ごろに起きた地震の様子を伝えています。これがおそらくマス・メディアによるこの地震の第一報だったようです。
全国的には翌29日の朝刊で地震のことが報道されました。しかし被害の大きかった名古屋の扶桑新聞と新愛知新聞は、新聞を発行できる状態ではなかったようで、地震から3日後の10月31日から発行されています。
西澤さんの調査では、10月30日の官報には、早くも当時の逓信省が集めた名古屋の情報の中に「損害夥シキ内、煉瓦構造ハ皆倒壊ス」との記述がありました。そして、愛知県作成した10月31日午前10時現在被害概況「震災概表(第四回)」には、「被害夥しく煉瓦の構造は皆潰若くは半潰せり」と記載されました。この表は、11月2日扶桑新聞記事に転載され、この記述もそのまま報じられました。
近代的なイメージだった名古屋郵便電信局や尾張紡績所のレンガ造建物の倒壊がよほど印象深かったためか、一報は、あきらかにレンガ造の被害を強調しすぎた報道になっていました。
しかしもっと詳しく当時の資料を探してみると、地震のわずか12日後である11月9日提出の愛知県警察部の資料には、「地域ごとの建物の倒壊率」を百分率で表そうとした被害調査資料も見つかったということで、西澤さんは「当時、被害状況を科学的に調べようという発想の人もいたのだろう」と推定しています。
123年たった今、私たちはこの震災から何を教訓として学べばいいのでしょうか?
西澤さんは、冷静な分析の必要性を強調します。
レンガ造建物の被害ばかりが印象に残って、その結果、愛知県庁が木造で作られることになったなどの世の中の流れの中で、詳細な被害調査を「地震家屋」という著書にまとめた建築士の佐藤(平野)勇造や、当時帝国大学の学生で、後の建築家として、また建築史家として有名になる伊東忠太、さらには英国人建築家コンドルらは、さすがに専門家の目で冷静に調査分析を行い、倒壊の原因としてレンガ同士を結びつけるセメント(モルタル)の少なさや、レンガ壁の薄さ、設計施工のお粗末さなどが真の原因であることを見抜いていました。
コンドルは当時の新聞に「地震がない英国でさえ許されないほどお粗末な造りが地震国日本で作られていたとは」とのコメントを寄せていたそうです。
そして、報道などではあまり強調されることのなかった木造家屋の倒壊をどう防ぐかという研究が国の震災予防調査会によってその後精力的に進められていったことも、当時の研究者や科学者が、冷静に地震の被害を分析し、国民の命を守るためにそれに対処する方法を考えていたことの表れだと西澤さんは考えているそうです。
今回のカフェには西澤さんの授業を受けている大学1年生もたくさん参加して、会場は満員となり、質疑応答も活発に行われました。少し時間が足りなくなってしまいました。すみません。
げんさいカフェの会場となっている減災館1階の企画展示では、いま濃尾地震がテーマになっています。西澤さんが説明文を書かれたパネルも数多く展示されています。ぜひみなさん見学にいらしてください。
たくさんの参加者のみなさん、西澤さん、ありがとうございました。
日時:2014年11月12日(水)18:00〜19:30
名古屋大学減災館 減災ギャラリー