濃尾地震と震災報道(減災館特別展示との連携企画)
ゲスト:建築史家 西澤 泰彦さん
(名古屋大学大学院環境学研究科教授 減災連携研究センター兼任)
日時:2018年12月10日(月)18:00〜19:30
場所:名古屋大学減災館1階減災ギャラリー
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦
(江戸川大学教授/名古屋大学減災連携研究センター客員教授)
今回のカフェは、減災館2階で行われている特別企画展示とのコラボ第2弾として「濃尾地震と震災報道」がテーマです。
1891年(明治24年)の起きた濃尾地震は、マグニチュード8.0と内陸で起きる地震としては最大クラス。明治政府がそれまでに直面した最大の災害でした。情報伝達手段が発達していなかった当時、いったいどのようにその被害状況が伝えられたのか、たくさんの当時の史料をお調べになった西澤泰彦さんにお話を聞きました。
まず、この大災害の発生をいちばん最初に伝えたメディアはどこなのでしょうか。
震源に近い「岐阜日日新聞」や愛知県「新愛知新聞」「扶桑新聞」の日刊紙3紙は、いずれも社屋が被災してしまってすぐには新聞が発行できない状態でした。また地震で通信手段も交通手段も途絶えてしまっているために、遠くへの情報伝達もままならないという状況でした。
西澤さんによると、最初にこの地震を報道したのは、大阪朝日新聞(現在の朝日新聞大阪本社)の地震当日=10月28日付けの号外だということです。
号外ということで、通常紙面の半分の大きさで1面だけ。「今朝の地震、惨状の概略」という見出しです。規模の大きな地震でしたから、この日大阪でも強く揺れました。そこで「今朝の地震」と報じているわけです。ただ、この時点では震源や地震の規模はまったく不明。「近年稀なる震災なれば、取り敢えず号外として報道す」と記事にはあります。そして「各地電報」と称して、京都、高松、岡山、佐賀など全国14箇所の支局からの電文が掲載されているのですが、報告されているのは比較的軽い被害ばかり。被害の最も大きい場所の情報はわかりません。
現代でも地震発生の初期には、最も被害のひどいところからは情報が来ないというドーナツ現象が起きますが、濃尾地震の震災報道でも最初はそうだったようです。
さて、地元紙の「新愛知新聞」も地震の翌日には号外を発行、そして3日後の10月31日からは通常発行に、「扶桑新聞」も同じ日に通常発行を再開しています。当時の新聞人たちの矜持を感じさせる素早さです。扶桑新聞には、地震の揺れで活字が散乱してすぐに紙面が組めなかったという状況も記されていました。
今回のカフェで驚いたのは、濃尾地震のニュースがすごい速さで世界中を駆け巡ったことです。
ロンドンのタイムズ紙は、地震翌日の10月29日付の紙面で、”Earthquake in Japan”と題した記事を載せていました。多くの建物が倒壊し300人以上の死者と数多くのけが人が出た、と報じています。
10月29日朝刊に記事が載るためにはおそらく前日の夜(日本時間10月29日朝)までには、その情報が届いていないといけませんから、なんと地震発生からほぼ24時間後には濃尾地震の情報が上海経由の電信網でロンドンまで届いていたということになります。
そしてこのタイムズ紙の記事は、同じ日のニューヨークタイムズ紙にも引用されアメリカにも伝わりました。これが約130年も前のことだと思うとすごいことですね。
こうして情報がいち早く国際的に報道されたことが、その後、世界中からたくさんの支援物資や義援金が届くことにつながりました。
当時の新聞では、まだ技術的に写真の掲載ができなかったため、紙面には、記者たちはなんとか文章だけで被害の実態を正確に伝えようと努力した跡が随所に見えます。愛知県西批杷島町の橋の被害の「半ば没落して中央は河水に接したるにも拘らず、そのままにて、車馬人畜を通行せしむるは頗る危険の見えあり」(読点加筆)という描写は見事でしたが、実際には2階部分だけしか崩壊していなかった名古屋電信郵便局の被害を「全く破壊」と大げさに伝えてしまった記事もありました。
参加者のみなさんからは、地震の被害をいち早く伝えようという記者たちの心意気を感じた、阪神淡路大震災で被災した神戸新聞を京都新聞が助けた話を思い出したなどの意見が出ていました。
西澤さん、参加者の皆さんありがとうございました。