第72回げんさいカフェを開催しました

「古文書にみる地震災害」

ゲスト:地震学者 平井 敬さん
   (名古屋大学大学院環境学研究科助教/減災連携研究センター兼任)

日時:2017年5月15日(月)18:00〜19:30 
場所:名古屋大学減災館1階減災ギャラリー
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦(江戸川大学教授/名古屋大学減災連携研究センター客員教授)

 げんさいカフェは、「南海トラフ広域地震防災研究プロジェクト」との共催で実施しています。

 6年前の東日本大震災をきっかけに、古文書の記述などから昔起きた地震について研究する「歴史地震研究」の重要性が見直されたと言われています。
 というのも、東日本大震災で我々が経験したような巨大津波は、平安時代の貞観11年(西暦869年)にも起きていたと考えられ、そのことが『日本三代實錄』という文書に「多賀城が崩れ、その付近が海のようになり、千人が溺れた」と記述されていたそうです。もし、この記述の重要性がもっと社会に伝わっていれば、東日本大震災の被害が減らせたのかもしれないと思います。地震の近代的な観測が始まったのはわずか100年ほど前のことですから、それ以前の「歴史地震」について、我々はもっともっと知る努力をしなければならないわけですね。

 ということで、今回は「古文書解読が趣味」とおっしゃる地震学者の平井さんに、減災連携研究センターの教員、研究員、事務職員、学生たちで定期的に開いている「古文書勉強会」の様子についてお話しいただきました。古文書を読むには、当時の人たちが使っていた「くずし字」を的確に読み取る力も必要ですから、その練習も兼ねて7つの文書を読んだそうです。
 
 今回のカフェでは、そのなかから主に名古屋大学図書館に所蔵されている『小川家文書』と、徳川林政史研究所に所蔵されている『道徳前新田御用留』に書かれている地震についての記述についてお話しいただきました。

 『小川家文書』というのは、尾張藩士小川円次郎家に伝わっていた大量の文書群で、内容は多岐にわたりますが1854年の安政東海地震と安政南海地震でどのような被害が出たのか、かなり詳細に記録されていました。
 それによると、名古屋城付近は「御城下所々損シ町々損所多分有之」=ところどころに被害が数多くあった、そしてより南の熱田区付近は「熱田地ハ御城下ゟ一入強」=名古屋城付近よりひとしお強い揺れだった、と書かれていたそうです。
 『小川家文書』には、藩内の寺社の被害状況が詳しくまとめられており、その被害分布から、それぞれの場所のおおよその震度を推定することもできたということです。また文書の中には、いまの名古屋市中区や東区にあたる広小路と片端に、被災者が身を寄せるために作られた長屋の様子を描いた絵図があり、現代の応急仮設住宅のような対応が、当時もとられたということがリアルにわかりました。

 もう一つ平井さんが紹介してくれたのは、尾張の国塩田村の豪農・鷲尾善吉が開発した新田についての藩の記録『道徳前新田御用留』。この古文書には、安政東海地震の時、まわりの新田は津波の浸水被害を受けたのに、この道徳前新田では、農民がいち早く引き波に気付いて津波の襲来を予想して対応したため津波の浸水を防ぐことができたという出来事が記録されていました。これによって、その後に藩から褒美をもらったという記録も残っていました。
 この出来事は、港区の郷土史や鷲尾善吉の頌徳碑にも書かれておらず、新しい発見なのではないかということです。

 こうした古文書による地震研究は、あくまで記述した人の主観によるものですが、地震の被害の様子や当時の社会の対応ぶりなどまで知ることができる貴重なものです。こうした資料をもとに、歴史地震の研究をもっと発展させて将来の減災に役立てていかなければいけないなと感じます。
 古文書に書かれた場所のほとんどに実際に足を運んで現地調査をしているという平井さんのような若い研究者が、さらに頑張って知見を増やしていってほしいものです。

 今回も参加した皆さんからは古文書の読み方や昔の地震についてたくさんの質問がでて、対話が盛り上がりました。平井さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。

→ポスター(PDF)
※過去のげんさいカフェの様子はこちら

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