第64回げんさいカフェを開催しました

「2つの”熊本地震”からわかったこと」

ゲスト:地震学者 武村 雅之さん
(名古屋大学減災連携研究センターエネルギー防災寄附研究部門教授)

日時:2016年9月8日(木)18:00〜19:30 
場所:名古屋大学減災館 減災ギャラリー
企画・ファシリテータ: 隈本 邦彦(名古屋大学減災連携研究センター客員教授)

 げんさいカフェは、「南海トラフ広域地震防災研究プロジェクト」との共催で実施しています。

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 今回の熊本地震が起きるまで、地震に詳しい人たちの間で”熊本地震”といえば「明治熊本地震」のことを指していたそうです。
 そこで、歴史地震に詳しい武村さんに、明治と平成の二つの熊本地震の比較をしていただこうと思っていたのですが、カフェの冒頭、武村さんは「いや熊本にはもっと怖い地震があった」とおっしゃいます。それが1792年(寛政4年)に起きた「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれる地震と大津波です。この年の4月1日に島原で大地震が2度発生。それに伴って起きた眉山の大規模な山体崩壊によって島原の約1万人が死亡しただけでなく、大量の土砂が海に流れ込んだために大津波が発生して、対岸の肥後国(いまの熊本県)の5千人近い人が亡くなりました。今回の平成の熊本地震でも大規模な土砂災害が起きましたが、熊本地方の皆さんはすでに江戸時代にこうした災害を経験済みだったというわけです。

 さて明治の熊本地震は1889年(明治22年)7月28日に起きました。
 地震の規模を表すマグニチュードは6.3と、平成の熊本地震よりだいぶ小さめでしたが、死者19人全壊家屋200軒以上という大きな被害が出ました。やはりこの時も熊本城の石垣が崩れ、一部の建物が損壊したそうです。修繕費が当時のお金で10万円かかったという記録も残っているそうで、いまでいえば50億円くらいの被害でしょうか。

 この明治の熊本地震は、我が国の歴史の中で最初に、国を挙げての組織的な被害調査が行われた地震といえるのだそうです。明治維新から20年余、ちょうど近代国家としての体制が整ってきたところだったのでしょう。地震の被害は各市町村ごとに詳しく調べられ、政府に報告されていました。日本の地質学・地形学の草分け的存在であった帝国大学の小藤文次郎教授は、地震の4日後の8月1日に現地に着き、調査を始めたことがわかっています。交通機関が未発達の当時としては大変な速さです。そしてその調査の第一報が、地震発生からわずか2ヶ月ほどで「地学雑誌」に掲載されているのも驚きです。

 細かい市町村別の被害状況の記録が残っているということを活用して、武村さんは、家屋の全壊率などのデータをもとに、明治の熊本地震の震度分布を推計しました。その結果、熊本市西部の金峰山付近の10キロ四方の範囲が震度6弱くらいの揺れに見舞われていることがわかりました。今回の平成の熊本地震の本震を起こした布田川断層帯とは少し違う場所ではないかということです。

 岐阜県大垣市出身で、日本初の地震学の教授となった関谷清景も、自ら地震計を持って明治熊本地震の現地調査を行いました。当時重い肺病を患っていて、病身をおしての調査だったようです。地震の震源に近い金峰山が噴火するのではないかと心配していた住民に対して、人心の安定を図るべく調査の傍ら時間を割いて人々に正しい知識の普及をしたという記録も残っているそうです。

 今回のカフェもたくさんの質疑応答が出て、対話が盛り上がりました。熊本県は企業誘致のため「熊本は地震の少ない場所」と宣伝していたそうですが、実際には江戸時代、明治、平成とたびたび地震による被害が起きていました。
 そして建築基準法がなかった明治時代には、比較的規模の小さな地震でも、数多くの家屋が倒壊し大切な人命が失われてたのです。

 いつ大地震が来ても大丈夫なように家の耐震性を見直すこと、地震についての正しい知識を持つこと、その重要性を、2つの熊本地震を通じて改めて学ぶことができた気がします。武村さん、参加者の皆さんありがとうございました。

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→ポスター(PDF)
※過去のげんさいカフェの様子はこちら

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